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  • 執筆者の写真雨咲

【三歌】むすびのあいだで(2)

更新日:2022年6月11日


花の御所、三日月宗近の風景ではない心象




桜の影から、三日月宗近はそっと外の世界を見下ろしていた。

時折なんらかの気配がして視線を動かす。しかしその先の姿を一瞥するとすぐに顔を背ける。

「ー違う、か」

眼下では歌仙兼定が一振、特徴的な紫色の髪をふわふわとぬるい風に揺らしながら周囲を一心に伺い駆けていた。それからこちらを一瞬だけ見上げたが、そこで急に表情を曇らせる。

その歌仙兼定は装束から察するにまだ修行を終えていないようだった。まだ発足して間もない本丸だろう。かわいそうに。

しかしこの三日月宗近にはどうすることもできない。絶望に肩を

落とし去っていく背中は花弁の嵐には紛れて消えてしまう。それをただ見つめていた。

来るな来るなと重ねて警告したそれなのに、どうして彼らはこうも執拗なのか。これこそが主命への服従心か、あるいは刀剣男士の本能か。

「……まぁいずせにせよ、これで

またしばらくはのんびりできるな」

三日月宗近はそっと目を閉じる。時間が止まっているこの世界では眠気など起きない。だからこそあえて眠ることだけに努めて暇を潰すのも悪くない。ここに居座ることも初めてではなく、二度目あるいはそれ以上……のことは全く思い出せなかった。

おそらく俺は、他の三日月宗近と少し違うのかもしれない。と、この三日月宗近は思っている。

かつての記憶など、今の本丸で暮らすには不要だ。過去の本丸が潰えると同時にそこで過ごしたことの詳細は完全に浄化される。それなのに自分に限ってはこの景色を懐かしく思いつつもこれから起こることに時折胸を痛めてしまう。こんな状態がいわゆる「ばぐ」というのかそれも今は確かめようがない。

茂った花びらの合間からほのかに甘い香りが鼻をつく。あの時も今ごろあの打刀が俺のことを探しにやってきた。突き止めたところでそれ以上の策も持ち合わせぬままに。

主に忠誠を誓い、凛とした美しい刀だった。本丸の始まりの一振の名に恥じぬ強い刀だった。しかしその実もろく儚い刀だったのかもしれないと、最後の時になってようやく思い至った。そういえば彼も結局、極めることはできずに散った。この腕の中で赤く染まりながら。

そこで三日月宗近は思い至る。俺が今気にかけているのはどこの誰ぞと。どうして既に存在しない本丸の歌仙兼定にばかり思いを馳せてしまうのだろう。もう本丸の形も、主の名も姿も、どんな刀がいたのかも忘れてしまったのに。その本丸の初期刀が「歌仙兼定」であったこと、そして彼がどんな存在だったのかだけは今も手に取るように思い出せてしまう。

最期に見た彼は泣いていた。泣き顔など一度も見せたことがないのに、涼しくも華やかな花緑青の瞳から澄んだ涙を静かにこぼし、幾度もすまない、すまないとうわずった声で呪文のように繰り返していた。今しがた失った主を思い嘆きながらやがて地面に膝を打った。その時、三日月宗近は黙って目の前の彼を見ていた。どうやら残されたのは俺と彼だけだったらしい。

桜は無慈悲に舞い散り、自分たちの周りに降り注ぐ。このままいれば俺も彼も埋もれてしまうのではないか。ぼんやりとそんなことを思っていた。とはいえ審神者の命が消えたこの世界のもとではそんな心配などどうでもいい。

「歌仙……」

彼の名前を呼ぶ。濡れた眼差しが俺を射抜く。元の主にも今の主にも、そして本丸の皆からも、たくさんの愛情を受けて育てられた可憐で逞しく、それがかえっていじらしくも李時折思う之定が一振。

「みか、づき……」

その声は震えていた。こんなにも憔悴した音色を聞くのは初めてだった。

「お前は、よくやった」

「……これで? 戯言を言うな」

こちらの労いを遮る口調は一気に冷めたものに変わる。明らかに拒絶の意を示していた。それからしばし沈黙の後、彼は再びゆるりと立ち上がるといきなり差していた刀―つまり歌仙兼定自身を地面に乱暴に放り投げた。

「あなや、」

 平素の彼からはありえない行動に、こちらも思わず身をすくめてしまう。がしゃり、と鋼が地面に叩きつけられた。

「……三日月宗近」

地面の刀に向けていた視線を上げると、彼は再びこちらを見据えていた。その目は相変わらず涼しげ、というよりは完全に熱を失っていた。長い下睫毛が瞬き、ちいさな唇が言葉を紡ぐ。

「頼む、これで僕を、斬ってほしい」

「今、何と」

「これで僕を、僕の姿を斬れと言ったのだ!」

何度言わせるのか、と荒く訴えている。だがそんなことをせずとも、そう遠くないうちにお互い消えてこの世からいなくなる。それに痛みや苦しみはおそらく伴わない。それをどうして。

何も答えずまだ彼の顔を眺めていると、再び彼が叫ぶ。

「辞世の句などもうできている! 聞こえているのか三日月宗近!」

別の世界から聞いているようで、いまだ実感が持てずにいた。悲痛な叫びで己を斬ってくれと懇願する打刀がよく知る歌仙兼定だという事実を。

審神者はいつか「うちの歌仙は他の子に比べて表情も口数も少ないね」とぼやいていた。三日月宗近も漠然とだが似た印象を持っていた。   

それでもその振舞いは凛とした自信に満ちており、まるで氷の上に舞う大輪の花びらのようだとも、幾度となく戦場で感じたか。それほどの花が今、目の前で爛々を燃える。それまで一度も泣き言も、ましてや自暴自棄になる様など誰にも見せたことがないのに、燃え尽きることを望んでいる。

ざり、と地面を引きずる音を立て、彼はこちらに歩み寄る。その間もずっと悲しく力強い眼光を逸らしはしなかった。決意はもう揺るがないとみた。

「そうか、」

「主命は果たした。でも守り抜けなかった。さすればもう、身を切るしか償いは」

「そう、だな」

あぁそうだ。確かにこの歌仙兼定は表情も口数も少ない。されど人一倍主や仲間を思う優しい刀でも

あった。

三日月宗近を救うという使命は果たせど、主も本丸も守りきれなければ何の意味もない。その事実を

突きつけられた今、彼に思いつくのはただひとつ、か。

思いを巡らせているうちに、どういうわけか胸の奥がざわつく。彼は使命を果たせなかった惨めな刀剣男士として、それでも辻褄の合う最期を模索している。それを理解はできても受け入れることが難しかった。主を失った彼の世界に自分は、三日月宗近はいるのか。なんとも形容しがたい歪な感情がふつふつと腹の底から湧き上がる。千年近く生きている爺の分際でどうしてこうも幼子の癇癪のような気分になるのか不思議でならなかった。

この本丸に来てからというもの、おかしな気持ちになることばかりだ。

「それで、どうしてくれるんだい?」

再度彼に問われた。今ここで彼に従わなければ、彼はきっと自ら腹を切るやもしれない。長く共に駆け抜けてきた間柄だ。感情的な彼が意外であっても、その根にある意固地さを知っていれば想像がつく。

「……あいわかった」

俺はゆっくりと彼の本体に手を伸ばす。それからしばらくの記憶は抜け落ちていて、次に覚えているのは……。



「―歌仙、かせんや……」

まるで眠っているようだ。呼吸を感じない頬にずっと触れている。べたりとした血の感覚。力が抜けた体の重さが腕に伝わる。その中で残された声が虚しく抱き上げた彼の名を繰り返す。

いつか一瞬だけ触れた時、あたたかいと感じた肌はすっかり冷えてしまった。それでも信じられず、その目がまた開くのを期待してしまう。そろそろこの世界も終わる。離れ難い気持ちをよそに。

「あぁ、何故、何故……っ、」

それはこの世界の運命についてか、あるいは己の感情についてか。もうわからない。

そうしているうちに徐々に彼の感触は軽くなり、こちらの意識も白んできた。また元の世界―どこかの本丸に生まれるのだ。

彼もまた、どこかの時間で違う主のもとで戦に出るのだろう。そうであってほしいと、願わずにはいられない。

とうとう彼の形も淡い光に包まれて朧になってしまう。最期にどうしても耐えきれず追いかける闇に飲まれまいともがくように、力強く彼の輪郭をいっそうきつく掻き抱く。そして顔を近づけた瞬間すべては白紙に戻った。



また新たな花びらと共にため息が溢れ落ちる。

結局、辞世の句をこの時空に持ち帰ることはできなかった。そっと手に落ちた薄紅色のひとひらを見つめる。

「……あの限りで、辞められればと何度思ったことか」

それでも自分はまたここにいる。再び訪れるやもしれぬ「彼」に怯え、しかし少しだけ待ち侘びながら。

あの時の彼とは違うけれど、せめてあの目がまた閉ざされることのないように。そう思った矢先に、遠くからざわざわと新たな気配を感じた。

最初はただ風が戦いでいるのかと感じた。だがだんだん音は溶け、意味を持った声に変わる。

耳障りの良い歌のようだと思った。しばしその心地に浸るも、ある存在に思い至。

(……感じる。これはまさか、彼ぞ?)

咄嗟に覗き込めば遠目に人の形を捉える。風が強まり桜は空にまで舞い広がった。


「―いにしえの 御所に降りて見上ぐるも……」


そうだ、いつの世界においても桜に負けじと燃え盛る花。

歌仙兼定とはそういうもので、俺はその花のことがいっとう好ましかった。



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