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  • 執筆者の写真雨咲

【三歌R18】僕と同居人の話。

更新日:2022年6月10日



■注意■


・この小説には現パロ・オメガバース・男体

妊娠などの表現があります。

・メインカプは三歌ですが、石かり・長蜂も

少し含みます。

(石かりには既に子供がいます)

・少し他キャラとかモブもいます。

・職業に関する描写は適当です。


以上が平気な方はぜひ楽しんでください♡


1








親友の蜂須賀が、結婚するという。

僕は彼を表面上では祝福していた。だが内心とても複雑だった。

「―えっ、あの義理のお兄さんと? もうそこまで行ったの?」

すごいねぇ、とカフェラテが入ったグラスをマドラーで混ぜながら青江が言う。対する蜂須賀は少々照れているのか、控えめに微笑んでキャラメルティーの入ったカップを手元のソーサーに戻した。

「……実は、今年の四月にはもう言われていたんだ。ずっとどうしようか悩んでいたけれど、向こうがあんまりにも必死だったから仕方なく折れてやった感じだよ。全く、奴のしつこさには困ったものだな」

「おや、もうそんなに前から。ならどうしてその時に僕らに言わなかったのですか?」

ブラックコーヒーが注がれたマグに口をつけながら宗三が尋ねる。純粋な疑問に隣の青江も同調した。

「そうだよ、いや別に言わなきゃいけないものでもないんだろうけれど。おめでたいことだし、君にしてはちょっと意外だなと僕も思った」

「そうか。心配させていたらすまない。でも別に意図はないよ。ただ、あの時期は君たちも忙しかっただろう」

「あー、まぁ僕はそうだったけれども……」

「たしかに僕もそうですね。でも歌仙、あなたも知らなかったんですよね」

「―あっ、あぁ、うん……」

宗三に話題を振られた僕は、そこでやっと皆の顔を見る。会話を聞いていなかったわけではない。二人が言う通り、今年の四月といえば青江は上の子供が幼稚園に入るための準備で忙しかったようだし、宗三も仕事が軌道に乗ってきた辺りだ。そして同じころの僕はずっと世話になっていた会社から突然の三下り半を突き付けられ途方に暮れていた。

しかし僕はこの面子の中で唯一実家にいるから、それが経済的な問題になることはなかったし、会社側もやむを得ない理由だからと担当者から何度も頭を下げられ納得がいくまで説明してくれたことは不幸中の幸いだった。少し虚しさを覚えはしたけれど、誰かの相談に乗るくらいの時間的、精神的余裕はあったと思う。だから今まで僕はずっと浮かない顔をしていた。口にするつもりはないけれど。

「うん、それは、……本当に悪かった」

歌仙ごめん、と隣から様子を伺うように詫びを入れられた。

「いや、いいさ別に。僕も最近何も連絡していなかったし、もともと逐一互いに近況を話す感じでもないだろう」

女子高生でもあるまいし、悩みを打ち明けようと約束する必要などしていない。確かに中学時代からの腐れ縁で、揃えば家族や教師や他のクラスメイトには漏らさないようなことも言い合って憂さ晴らしをしてきた。でも今は大学を卒業して二年目。皆社会人になったし、青江に至っては家庭がある。

そう、だから今のタイミングで良かったんだ。抹茶ラテの柔いクリームを啜りながら、僕はそう思い直す。

「それにしても歌仙、あれから仕事は大丈夫なのかい?」

青江が心配そうに尋ねられる。

「うん。まだ当てがある訳じゃないけれど……今も脈がありそうな会社に持ち込んだりしているよ。数は少ないけれどコンペにも応募しているし」

言いながらカップをことり白いテーブルに置くと、青江は頬杖をついて眉間にしわを寄せていた。宗三も腕組みをして厳しい顔になっている。

「そっかぁ……」

「突然の廃刊でしたね。僕も読者の一人として残念ですよ」

「仕方ないさ。オメガの、まして男性向けの雑誌なんて需要があまりにも少ないだろう。それ位は僕だって覚悟してやっていたよ」

「それはそうだけれども。でも僕もネットで最初に知った時はがっかりしたよ。続き見たかったなぁ。あのベータの奥さんがいるアルファに主人公からデートに誘って……」

「あれは面白かったですね。あと僕的には金持ちのアルファの恋人に急に別れを告げられたところから始まる話。ラストまでずっとドキドキしっぱなしで……」

「あ、ありがとう。でも君たち、今ここでそういう話は」

宗三も青江も、僕が小説家になるきっかけを作ってくれた恩人である。だから内心でとても感謝はしていた。その手段が手段だっただけに、余程のことがない限り口に出してやるつもりはない。しかも今は近くに純粋培養の蜂須賀がいる。その手の話題はご遠慮願いたくて仕方がない。

「何言ってるんだい。僕らは君のファン一号二号三号だよ? だから心配するのは当然で……ねぇ三号?」

「え、もしかして俺が三号?」

不服そうな反応を見せた蜂須賀に宗三もふふっと口元を歪めた。

「だって、初めて歌仙の文章を読んだ順番からするとそうなるでしょう」

「うーん、でも俺は歌仙が小説を書いていること自体は君たちよりずっと前から知っていたよ」

「……そりゃあ流石に言いにくいだろ。高校生でその、ちょっとあんなものを書いているだなんて」

「あんなものとは失礼だな。純粋な恋愛小説だぞ」

「うん……そう言われればそうなんだけれど……」

「青江、僕の書いたものが邪に見えるのは君の心がそうだからじゃないのか?」

「えぇ、全部僕のせい⁉」

「まぁまぁ。青江の思考がアレなのは確かとして、歌仙はいつまでも蜂須賀には甘いですよね」

「いや、特に甘いつもりはないけれど……」

「というか僕の思考がアレなことには誰もフォローしてくれないのかい⁉」

このメンバーの中で僕は蜂須賀と一番付き合いが長かった。だからこそ言えないこともあるし、それを良しとしてくれるから彼を親友だと今も思えている。

「ふふ。でもお陰でこうしてプロになれたんだし、良かったじゃないですか」

「まぁ、そのプロ生命も今や危機だけどね。でも、こんな僕でもまだ心配して応援してくれる君たちには、本当に感謝しているよ」

そう吐露すると、青江も蜂須賀も宗三も揃って穏やかに笑って頷いてくれた。

「まぁね。そもそも今回の件は君のせいじゃないだろう。今は大変かもしれないけれど、僕たちはまた君の話が読めるのを楽しみにしてるよ」

「そうですよ」

「俺もまた協力できることがあったら力になるよ。ネタ出しとかリクエストとか……あぁそうだ、俺は恋人にしてほしいことを手紙にしたためた話が好きだったよ」

「や、やっぱりやめてくれ蜂須賀‼」

「えぇ、ひどいな歌仙、俺だってもう子供じゃないんだよ」

「分かってる。そんなことは分かってる! ただどうもまだ君とそういう話をするのに、こう、昔の印象があるから」

「ちょっと歌仙痛いっ!」

「……結構歌仙も、自分の書く話がアレだと自覚しているんじゃないかい」

「歌仙、認めてはいませんけど結構ムッツリですものね」

「二人とも聞こえているぞ‼」

慌てて蜂須賀の肩を強く掴み揺さぶりながら弁解する僕の傍で、青江と宗三が面白そうに小声で会話を続ける。おい揶揄う前に止めてくれよ混乱している僕を!

「……でも、本当に面白いですね。あんなに話を書く本人はいまだに交際経験ゼロの処女だなんて」

「ほんとほんと。まだ恋人ができそうな気配もないんだろう」

あろうことか青江たちは止めるどころか言いにくい話題を持ち込んできた。しかし悲しいがなこれも学生時代からよくある流れだ。僕は蜂須賀の体から手を離すと、二人のほうに向き直りラテで少し喉を潤す。そして改めて釈明した。

「……その話なんだけれどね。僕は自分自身が恋愛するとか結婚とか、そういう気分にはまだ」

「おやおや、本当にガードが堅いですねぇ」

「高校時代から取っ替え引っ替えしていた君よりマシだろう」

「高校時代に夜の街デビューしたあなたよりはマシです」

「宗三もほんと相変わらず酷いよね……」

「そんなの今に始まったことじゃないでしょう」

「うぅ……。でもさ、ちょっと勿体ないよねぇ。歌仙ってこんなだけど結構可愛いとこあるのに」

「ねぇ、顔も可愛くて家事も出来て安産体型で……これだけ挙げると僕らの中ですぐによさげなアルファに捕まりそうなのは歌仙なのに」

「腕っぷしも効くし、僕なんかよりもずっと肝っ玉良妻賢母になれそうなのにね」

「青江、宗三、褒めてくれているのかい? ならばありがとう。ちょっと余計な情報も入ってそうな気もするけれど」

不本意ながら、体型に関しては妊娠出産という場面では有利かもしれない。一般的にオメガは宗三や青江、蜂須賀のような華奢な体型が多いという。顔立ちも男性でも女顔になりやすい。アルファが本能的に愛し庇護したくなる外見ということだ。

しかし皮肉にもそうした要素は、オメガの本来能力である妊娠出産の際に体力が持たず事故や後遺症の原因にもなる。僕の母の死も、弟を産んだ後に発症した後遺症によるものだった。昨日もたまたま見たニュースサイトのコラム記事で社会問題として話題になっていた。

そんな中で僕は十代の頃所属していた剣道部ではアルファに負けたくない一心で鍛えまくったお陰で友人三人よりは多少体格が良い。それでも完全な筋肉質にはなれず、皮下脂肪が残ってしまった。これもオメガの特性ゆえの体質らしい。

「ほら、新婚の蜂須賀もちょっと何か言ってあげたらどうですか」

「えっ、あぁ、うん、」

「いや蜂須賀、僕のことは本当に良いから!」

宗三に促されるまで蜂須賀は大人しかった。もともと彼もこうした話が得意な方ではないと思うから、宗三の煽りを気をしないよう窘めようと思った。しかし親友は先にぽつりと零す。

「結婚はね……辛いことも寂しいこともあるけれど、でも、楽しいよ。好きな人と一緒にいられることって」

「……蜂須賀?」

「あれ、なんか急に元気なさそうだけど、大丈夫かい」

いつもはっきりとものを言う蜂須賀にしてはやけに歯切れが悪い気がしたのはどうやら僕だけではなかったらしい。青江が聞くと蜂須賀は我に返ったように顔を上げる。

「あ、あぁ、ごめん。別に何でもないんだけれど、ちょっと色々思い出したから」

「そうですか。でもそれはちゃんと解決出来たんです?」

 宗三も心配そうに尋ねる。

「うん、今はもう平気だよ。でもちょっと眠くて。昨日まで仕事忙しかったのが出てきたのかも」

蜂須賀は僕たちを心配させないようにと声を明るくする。しかし淡く澄んだ緑の瞳は戸惑いに揺らいでいるように見えた。流石に深刻な悩みなら相談に乗ってあげるべきか。宗三と青江、僕の間で顔を見合わせる。

その時、背後でギィ、とドアが開く音がした。

「―あぁ、盛り上がっている所で悪いね。青江くんの旦那さんとお子さんが来たんだけれど……」

「あ、光忠さん。ありがとう。すぐ行くよ」

黒いカフェエプロンを付けた長身の男性がドアから顔を出す。

青江はその知らせに驚きつつ、テーブルに置かれたスマホを手にする。

「もうそんな時間ですか」

「そうかなぁ。出る時に連絡入れるって言われてたんだけど……あ、一件来てた」

「じゃあそろそろお開きにしようか。蜂須賀も疲れているみたいだし」

「うぅ、みんな本当にすまない」

「いえいえ、僕も明日は早番のち遅番ですし」

「早番のち遅番って、ちょっと意味わからないんだけれど」

「夕方いったん戻って夜中にまた勤務です。こき使われるんですよ看護師って」

「そうかぁ……。僕も子供たちを病気させないようにしなきゃ」

そんな会話をしながら各々荷をまとめてコートを着込んだ。秋が深まった夜風に当たった体は、ホットドリンクでは温まるわけがない。トレンチコートを羽織り、薄手のマフラーを巻くと気持ちが落ち着いた。

「あぁ、そういえば歌仙、ちょっと」

「なんだい宗三」

屋上のテーブル席から店の中に戻る途中で呼び止められる。蜂須賀と青江が話しながら通り過ぎていくのを見送りつつ、宗三は僕の傍に近づき、一度小さく鼻を鳴らした。

「……やっぱり、あなたちょっと匂いしてますね。そろそろですか、アレ」

「えっ⁉ 嘘だろう。予定だと確か来週……」

「また周期が乱れたんでしょうね。結構あるんですか?」

「うん。時々……薬はきちんと飲んではいるんだけれど」

「なるほど。あまり夜更かしはしないほうが良いかと。あと今日は安全な道で、まっすぐ帰ってくださいね。この程度なら人混みを避ければ気付かれないとは思いますが」

「忠告、感謝するよ。でも本当に相変わらず凄い嗅覚だね」

「それを活かして今の仕事してますから。あと歌仙が鈍すぎるだけです」

「……やっぱり、そうなのか」

「まぁ、生まれつきの体質は仕方ないですよ」

宗三いわく、成人オメガのヒートともなれば首筋から発散されるフェロモンの香りはきつくなる。時期が近付けば本人でも自覚できるようになるらしい。

しかし僕は二十代半ばに差し掛かった今でもそれが全く認識できないでいる。逆に宗三はその点に非常に目敏く(鼻聡く?)、ヒートの初期段階から感じ取れるらしい。お陰で何度か助かったし、何よりとても羨ましかった。


 ◇◇◇



「あ、やっと来たね」

二人で急いで螺旋階段を降りると、レジの前に青江たちがいた。既に自分たちの会計は済ませているらしく、早く早くと手招きされる。青江の後ろのレジカウンター横には光忠と、彼が言ったように青江の夫―石切丸もいた。

「やぁ歌仙さんに宗三さん。久しぶり」

石切丸はその大きな腕で、青江と同じ色の髪を持つ赤ん坊を抱いている。

「お久しぶりです。すみません、ちょっと話し込んでしまって」

「青江、石切丸を待たせてるんだよね。すぐ会計済ませるから、ええっと……」

そう言いながら急いで各々のドリンク代の支払いを済ませ、この店のオーナーに挨拶をした。

「光忠、今日もテラス席押さえてくれてすまないね」

「良いんだよ。君たちも周囲を気にせず話せた方が良いだろうし」

オメガの人口は少なく、その特性ゆえ法律やサービスが整備されつつある今でもなかなか社会的に肩身が狭い。特に企業への就職にはアルファやベータ以上の苦労が強いられるし、犯罪の標的にもなりやすかった。日常の相談ごと一つとっても、その内容が良からぬものの耳に入れば大ごとになりかねない。そんな中で、光忠は数年前からこのカフェを経営していた。オメガの客に配慮しつつも、バース性に関係なく働ける場所というのがコンセプトらしい。光忠自身が元ホテルのパティシエだったとだけあり、スイーツやドリンクにも拘りが感じられる。大学の頃から僕たち四人の溜まり場のようになっていた。

「ほとんど僕と宗三でしゃべっていたけれどね」

栗色の髪に丸い頬をした、父親似の小さな男の子の手を引きながら青江が言うと石切丸がおやおやと呆れる。

「青江、友人に迷惑になるようなことはしちゃいけないよ」

「なんだい石切丸、子供扱いはやめてくれよ」

「私からしたら君は子供だよ」

「……その子供を嫁にしたのはどこの誰だい?」

「青江、それ以上石切丸を苛めるのはどうかと思うが」

頬を膨らませて拗ねる青江に忠告する。青江と石切丸は十歳ほど歳が離れているから、石切丸の気持ちは分からないでもないと僕も思ってしまう。これでも青江が結婚した時は、状況が状況なだけに石切丸にはに複雑な感情を抱いていた。でも今となっては悪くない思い出だ。

「おや、その子が今度幼稚園に入るという?」

「あ、うん。そうなんだよ……もう赤ん坊の時ぶりだよね。ほら有青、挨拶して」

手を引かれた子供は、母親に言われてぺこりとお辞儀をした。

「さんじょうゆうせい、さんさいです!」

父の本名と母の名を一つずつ受け継いだ名だ。彼自身も気に入っているのか名乗るとにぱっと歯を見せて自慢げに笑う。傍にいた蜂須賀が感心しながら少し身を屈めて小さな手に握手を求める。

「はじめまして……でいいか。俺は蜂須賀。君のママのお友達だよ」

「はちすか! ママのともだち? なかよしなの?」

「うん、そうだよ。大の仲良し」

「パパとおなじくらいなかよし?」

「んー、パパとママの仲良しとは、どうなんだろう。ちょっと違うかもしれないな」

「こら有青、呼び捨てはダメだよ」

「あはは、それは別に構わないよ青江、すごくしっかりしている子だね」

「最近ねぇ。色々覚えが良いのはいいんだけれど、その分落ち着きがなくなって困るんだよ」

青江と蜂須賀の会話を聞いていると、視界の端に気配を感じた。そちらを向くと、石切丸に抱えられている赤子が僕の方をじいっと見ている。髪と顔立ちこそ母親似だが瞳の色が深い紫で、以前青江に見せてもらった写真を思い出す。

「今日は珍しいね。江成は結構人見知りするから、こんなに大勢の場所で大人しいなんて」

様子に気づいた石切丸が驚いていた。丸い目を瞬きさせながら表情を変えないので、僕も少し面白くなって更に距離を縮めてみる。


「へぇ、不思議なこともあるんだね」

「はは。類は友を呼ぶ……のかもしれないね」

「石切丸、それはどういう意味代」

「いや、別に」

だが暫くすると、赤ん坊は目に涙を一杯に溜めて表情もくしゃりと歪ませてしまう。

「あ、あぁすまない……睨んでいると思われたかな」

「歌仙さんは悪くないよ。いつもはもっと酷いからね」

ぐずる我が子を抱え直す石切丸の所作は慣れたもので、本当に良い父親そうで良かった。そう友人ながら安心する。

「でも歌仙さんも今大変だろう。今回のコンペも力になってあげられなくてすまなかった」

「いや、寧ろ紹介してくれて助かった。落ちたのは本当に僕の力不足だったし」

「あの出版社はねぇ。編集の人はみんな良い人が多いんだけれど、上がまだまだお固い、みたいな感じらしいんだよ」

石切丸は申し訳なさそうに肩をすくめて言った。彼は僕の仕事がなくなってから、どこかに書ける場所はないかと己の仕事のネットワークを使って情報を仕入れてきてくれた。しかしアルファである彼とオメガの僕とでは、同じ会社でも貰える仕事の内容には圧倒的な差があった。

キャリアの長さや漫画と小説という分野の違いもあるが、性別やそれに伴う需要と供給の問題。そして会社の人間のオメガに対する色眼鏡が僕の前には嫌でも立ちはだかる。こればかりは売れっ子とはいえ一介の作家に過ぎない石切丸だけではどうしようもなく、僕もその点は承知して彼の好意に甘えているのが現状だ。なるべく早く落ち着いて、彼にもそれなりの恩返しをしてやりたい。

以前青江にもスマホのメッセージ経由でそのことを話したら『別に気に病むことはないよ。あの人もねぇ、色々顔が広そうな雰囲気醸し出してるけど、所詮はエロ漫画家だから』と笑って返された。

「さあ青江、そろそろ帰ろう。実はここからちょっと歩く場所に車を停めてしまったんだ」

むずがる赤子をあやしながら石切丸は、蜂須賀に加えて宗三とも談笑していた青江に声をかける。

「あ、そうなのかい。じゃあ蜂須賀、またね」

「うん、じゃあね」

「お気をつけて」

「歌仙さん、それじゃあまた良いクチあったらメールするよ」

「じゃあね、歌仙。また」

「あ、うん……」

僕たちに軽く会釈をして一家が店を出ていく。それを見送った宗三も僕らも帰りましょうか。と少し寂し気に呟いた。僕も蜂須賀もそれに頷き、開いていたドアから一人ずつ外に出る。最後に僕がノブに手をかけた時、すぐ後ろで光忠が誰かに声をかけていた。

「あぁ、からちゃん。上のフロア行くなら悪いけれどテラスの片付けもお願いできるかな。そのままで降りてきちゃったんだ……」

からちゃん。その名前にはっとして振り返ると、見覚えがある姿が螺旋階段を上っていった。濃い色の肌にこげ茶の襟足が少し長い髪。忘れるはずがない。

(―あぁ、あの子はここで働いているんだ)

弟の和泉から、確か住み込みでバイトを始めたらしいとは聞いていた。ただ何処でかは知らなかった。もっとも、もう十年近く顔をも合わせていないから、でわざわざ帰り際の今引き留めるつもりはなかった。

それでも、すっかり大人びていた横顔を眺めながらゆっくりとドアが閉まっていく。

「おーい歌仙、もう駅に向かうよ!」

「あぁ、すまない。今行くよ!」

蜂須賀に呼ばれて、僕の意識はすぐにそちらに向いてしまった。




  3




翌朝。布団と毛布の下でもぞもぞと身じろぐ。眠気が徐々に薄まっていく中、肌がじっとりと湿っている気がする。今日はそこそこ温かいのだろうか。そんなことを思いながら隙間から半分だけ顔を出す。

昨晩は流石にまだ暖房は早いと思いタイマーを入れなかった。額に当たる空気がひんやりとして気持ちいい。それでも僕の意識はあまり冴えなかった。おかしいな、寝覚めは悪い方ではないのに……ある時期を除けば。

そこまで思った後、まさかと思いベッドサイドの小さいテーブルに手を伸ばす。

いつもガラスの入れ物に差してある目当てのものをすぐに探り当て、スティック状の機器の端にあるスイッチを軽く押す。細くなっている方の先を口に含んで舌の付け根に触れるように舌先で調節し、じっと一分待つ。ほぼ毎日、十年近く続けている日課。母さんが病気になる直前に教わったものだから忘れるはずもない。

ピピ、と無機質な電子音が鳴り、口から機器を取り出した。

「三十六度,、八七分」

小窓に表示された数字を見ると嫌でもため息が出てしまった。一般的に平熱ではあるが、僕にとって朝からこの数値は若干高い。小数点以下第2位まで計測できるこの体温計は、オメガのヒート時期の把握に役立つ。

とりあえず忘れないうちにと、枕横のスマホを手繰り寄せて記録アプリを開きカレンダー機能に体温計の数値をそのまま入力した。昨日ほぼ同じ時間に測ったときより明らかに五分は上がっている。アプリを一旦閉じると今度はメッセージアプリに切り替え、「いずみ」と表示されているトークルームに入る。恐らくまだ寝ているかもしれない。だがこちらは少なくともあと五日は母屋には行けないので用件を簡潔に入力していく。


”―おはよう。今日から手討ちに遭い暫く出られない。

明後日くらいまでのものは冷蔵庫に用意してある。

大皿には鶏肉のトマト煮、小さい皿にはひじき入りの煮豆で、丸い皿には出汁巻き卵だから。

それ以降は各自でどうにかするように”


「手討ち」とは物騒な文言だが、男のオメガの間ではヒートのことをこう呼ぶと通りが良い。女性は「月のもの」などと呼ぶらしい。他にも「一揆」や「討ち入り」などのレパートリーがあるが、僕は粗野さが薄くどことなく厳かかつ雅な雰囲気の響きが気に入っているので「手討ち」を好んで使っていた。まぁ、本当は手討ちに遭うよりする方が性格的には好きだけど。

メッセージを送って1分もしなううちに、軽いメロディと共に吹き出しに乗って返信が届いた。珍しくもう起きていたのだろうか。


”―はよ。

おけ、こっちはいつも通り適当にやっとく。

とりあえず俺これからバイト早番だから、欲しいもんとかあったらまた連絡してくれ。いつものとこに置いとくから”


いつものやり取りだが、母屋で暮らす弟からの返事にほっと胸を撫で下ろす。最近では「手討ち」などの呼称はベータやアルファでも通用する。あまり外で言いうのは安全上憚られるが、必要な時にでさえ言いにくいから、浸透しているのは非常に助かった。そして父譲りのアルファでありながら僕のことを気遣ってくれる弟の存在もまた然り。

短く感謝のメッセージを打とうとしたところで、更に彼から吹き出しが入る。


”―あーあと、ちっとこれは言いづれぇんだけど……”


歯切れが悪そうな文面に首を傾げる。


”―なんだい?”


”―オヤジがさ、今度こっちに来たら話があるからって”


ああ、そういうことか。明確には告げられていないが僕はすぐに悟る。要は見合い話だ。大学時代からこの4年近く、こちらはずっと拒んでいるというのに。また勝手に相手を探してきたのだろう。全く懲りない人だ。

ただでさえ調子が思わしくないのに、このタイミングで追加された悩みに長いため息が出てしまう。


”―分かった、教えてくれてありがとう”


返事だけ残してからアプリを閉じる。枕元に端末を戻し、最低限の要件を済ませた安心感もあってうとうとと瞼が重くなる。ヒートに入るとどうしても眠くて仕方がない。これから数時間の睡眠を通じて本格的な発情が来るだろう。昨日の宗三の忠告を聞き、帰宅後慌てて母屋の分の食事の拵えておいて良かった。皮肉にもそのせいで今朝僕自身が食べるものを完全に失念してしまった訳だが、今となってはどうしようもないので常備してあるゼリーで凌ごう。そんなことを思っているうちに意識は徐々に薄れていった。



 ◇◇◇



再び目覚めたのは昼過ぎくらいか。高くなった太陽の光に誘われたのが引き金だった。その時にはもう僕の肌の感覚はすっかり鋭敏になっていて、シーツに触れる感触にすら身震いがする。

「はあっ、…はあ、……あつ、」

自身を掻き抱いて荒い呼吸を繰り返す。朝から汗や下腹の重だるさは出始めていたから寝間着もすっかり濡れていて不快だ。それに何より……。

「んっ、ぅ、」

躊躇いながらも片手でパジャマのズボンごと下着をずらし、足の付け根辺りを撫でまわして確かめる。すると指先に汗とは違う粘った湿り気を感じて自ずと気持ちが沈んだ。多分、就寝直後から既に始まっていたのかもしれない。太腿まで湿っているということは、お尻は確実にびしょびしょだろう。

(まいったな。別に今回もそんな予定ないのになぁ)

男性オメガのヒートは局部がずっと愛液で濡れた状態になる。本来はアルファとの性交を円滑にするための生理現象だが、特にパートナーがいない場合は面倒なものでしかない。倦怠感に甘えてやり過ごしたい気持ちが山々だが、このままでも不快が過ぎる。暫しためらうも、のろのろと起きて手洗いを済ませることにした。それからどうにかシャワーも浴びて着替え、上辺だけでもすっきりすると気持ちが幾分リラックスした。

一度キッチンにも寄ってミネラルウォーターとゼリー飲料を冷蔵庫から取り、この時期用のTシャツと下着のみというみっともない姿のままベッドの脇に腰掛ける。

「ふぅ、」

発情期中でも一日の間で性欲には波がある。今のように多少引き潮になっている頃が一番手持無沙汰だ。このまま横になるのもちょっと寝すぎだろうかと思うが、作業が出来るほどの集中力もない。

周期通りだったなら今日から新たに出版社に持ち込むための作品を書き始めようと思っていた。抑制剤の進化でヒート期間が短縮された。それにより十年前よりは社会的制限は減りつつあるとはいえ、オメガの仕事探しはやはり厳しいと実感する。例え現場が良くても決裁をする上司世代の意識が変わらない限り、この風潮は当面続くだろう。それでもどうにか近いうちに現状を打破しなければならない。

(何せこれでダメだと諦めてしまったら、僕にはもう、)

そこまで思いつめると、またため息が出てしまう。やばい、ドツボに嵌りそうだ。慌てて思い直してゼリーのキャップを開けて喉に流しこむ。化学的な味はあまり好きではないけれど、まともに家事ができないこの時に文明の利器は本当にありがたい。気持ちを切り替えるべく、しんどくなるまでスマホで毎日チェックしているニュースサイトに目を通すことにした。

恋愛作家として生き残るためにも、世間の最新情報を収集しておくことは重要だ。今日のトップはアルファとオメガの番の姓に関する法的解釈の問題で、ここ数日同じ内容が続いている。

オメガの社会進出を後押しするために別姓を導入すべきという意見と、それではアルファの権威や番制度の意味が薄れると反対する勢力で世論が二分されている。

僕自身はまだ結婚どころか恋人すら持った経験がないせいでこの議論について漠然とした見解しか見いだせない。もし今、結婚を前提に付き合っているパートナーでもいれば積極的な意見を持っていたのかもしれない。だがそうでない以上、自分が経験してもいないことに口を出すのは品性に欠いていると考えていた。

そういえば以前、宗三ともこの話題を話すことがあり、その時も似たようなことを言ったところ「経験してなくても想像くらいはできるでしょう。あなたらしくありませんね」と、かなりきつめの苦言を呈されてしまった。確かに小説のネタは経験していなくてもどんどん想像が膨らむのに、こうした現実的な話題だとあまりピンと来ないというのは我ながら不思議な話だ。ちなみに宗三は完全に別姓を導入すべきという明確な意思を持っているらしい。

当時はまだ高校時代からお世話になっていた会社でコンスタントに活動できていたのであまり気にはしなかったが、今となっては彼の指摘が身に染みる。やはり結婚について曖昧なイメージのままだと、作品の内容にもリアリティが出ないのかもしれない。

うぅ、と唸ってベッドに寝転がる。らしくもなくどうしても考えが仕事に結びついてしまう。

このままでは知恵熱まで出そうだ。トップ記事は飛ばして他の目新しい、心が上向くテーマを探そう。そう思い見出しを見逃さない程度にゆるゆるとスクロールを繰り返していると、ある項目が目に入った。

「みかづき……?」

大見出しは、「三日月の新作、今度は本丸市の住宅地で発見か」とあった。

「三日月」とは、確か世界中の壁に絵を描く匿名のアーティストび名称だ。日本人であるとは言われているが、それ以外の素性は誰も知らない。三日月の夜に世界中の街のどこかの壁に、作品とともに三日月を象ったサインを残していくため、皆が「三日月」と呼ぶようになった。

壁に絵を描くというと単なる落書きかと思われがちだが、黒一色のみを頼りに巧みに表現されるその前衛的な芸術性から世界的にも注目されつつある。と、ことまではどこかで聞いたことがあった。少し前、僕の記憶ではロンドンの地下鉄の駅構内に作品を発表したものの彼のことを知らなかった清掃員がうっかり消してしまったというニュースもあった。まぁ無断で描いているのだから、国によってはそういった事態もあり得るし、そもそも公共の壁に無断で絵を描くのは犯罪である。それでもも、そんな行為すらもてはやされるような人物がなぜ観光名所でもない住宅街で創作をしたのか。

「……あ、」

ふと昨日通り過ぎた廃ビルに浮かんでいた模様を思い出す。記事には作品が発見された時間は今朝、さらにスクロールするとまさに僕が昨日通った場所の写真が載っていた。

街灯が少ない道だったせいで昨夜ははっきりとは見えなかったが、まさかあの落書きだったとは。画像をタップして拡大させると壁の絵はどうやら真ん中ではなく右の隅に描かれていたらしい。

風船を持った子どもの絵だ。後ろ姿で表情などは分からにが、髪の長さからして男の子だろうか。

でも最近は襟足くらいまでの長さであれば男女問わずいるから、あまり断定も出来ない。

主線が黒いため色も分からないが、髪が風に靡いている感じや風船の揺らめきがモノトーンが織りなす陰影によって緻密に表現されている。キャプションには「子供の持っている風船の輪郭が『Ω』を象徴している。」と補足されていた。

「三日月」が描くテーマは複雑な現代社会の問題が多いと言われている。今回の絵は、いまだ根強く残るバース性差別を批判しているのではないか。本文の最後はどこかの識者のインタビューからそう総括されていた。

古美術ならともかく現代アートにはあまり造詣が深くない僕としては、いつもなら一回記事を読み終えれば興味を離れてしまう内容だ。でも今日は写真越しのその絵から目が離せない。

この絵の傍で感じた香りをどうにか思い出したくなった。甘い花と果実が混じったような、深く安心する香り。

ヒートのせいで不安定な今の体調も、あの匂いを嗅げばきっと落ち着くような気がする。

「もしかして、あれが……フェロモンなのかな」

青江が石切丸と付き合いだした頃に言っていたことを思い出す。

「―石切丸の匂い、すごい落ち着くんだよねぇ。なんだろう、花?みたいな匂いなんだけれど、なんの花なのかは分からなくて。でもヒートの時に嗅ぐと特に良くてねぇ」

当時はなぜヒートの時期に石切丸と一緒にいるんだ、とツッコミを入れたが、その後作家になりバース性関係の資料を読んだ時もこうした証言は多く目にした。ただ、そうだとしたら昨晩あの付近に香りを発していた人物がいたことになる。

僕を着けていた男か? にしては大分時差がある気もする。徐々にまだ見ぬもう一人の存在を脳裏に思い描き始めた。

(会ってみたい。かも)

彼か、それとも彼女か? 

分からない。だけど未知の匂いに対する渇望は僕の体を熱くしていく。

「はぁ……」

とくとくとく、と胸に響く心拍のスピードが速くなっていく。湿った吐息がスマホ画面に薄く露を張る。また波がやってきた。

シーツに機器と体を投げ出して目を閉じ、必死に昨日の夜の記憶からあの匂いだけを取り出す作業に没頭した。すると肌の奥で暴れまわる熱と疼きに耐えられなくなる。とうとうシャツを胸のあたりまで捲り、下着も膝までずらすとゆっくりと汗ばんでいる太腿に手を伸ばす。

何度経験してもこの時間の始まりは恥ずかしい。でも今日は不思議と全身が躊躇うことなく素直に快楽に沈んでいく。ゆるゆると何度か足の付け根をさすった後、既に腫れあがっている性器を掴むと、腰全体に電流のような刺激が腰全体に走り、思わずひっ、と怯んでしまう。

(何だろう、今日はすごく…イイ…)

とろとろと溶解する世界の中でそう感じながら、僕は深い劣情に没頭していった。




  4




ヒートが終わって体調が回復すると、僕はずれたスケジュールの立て直しに追われた。出版社への持ち込みをを予約した日が迫っている。更に休んでいる最中に石切丸が根回ししてくれた会社からもメールが来ていた。忙しくも多少の手ごたえが出てきたことが喜ばしい。一方で、一番嬉しいメールが来た同じ日に山のように重なった領収書の束をうっかり見つけてしまうことになる。

オメガの特性上細かい計算が人一倍苦手な僕にとって、この状況は苦痛極まりない。早く軌道を戻して稼いで、秘書とまではいかなくとも作業を手伝ってくれるバイトを雇える身になりたいものだ。

目まぐるしい日々に一喜一憂しながらささやかな目標を持ち始めていた。

持ち込みや打ち合わせの予定を取り付け、どうにか明細の整理もひと段落着いた頃にはもうカレンダーは十二月になっていた。苦痛な作業中気を紛らわすために聴いていたラジオもクリスマス関係の話題が日増しに増えていき、いざ久しぶりに外に出てみると寒さが一段と強まっていて本格的な冬の訪れを悟る。

自室のある離れの鍵を閉め、母屋を横切り門の手前のあたりでポケットからスマホを一旦取り出す。一応弟には外出する旨は伝えておこうと思った。メッセージアプリに、散歩に出掛けるとだけ書置きをしてから夜の歩道に出る。こんな時間に兄貴が外出なんて。ときっと和泉は珍しがるかもしれない。

今日も朝から快晴だった。空を見上げればあの時と同じ三日月が夜闇にくっきりと浮かんでいる。

ネットで見た限り、「三日月」の絵はまだあの場所に残っているらしい。彼の作品は三日月の夜に現れて、次の三日月の夜を最後に消えてしまうそうだ。別になんの確証もないけれど、もしあの香りの主に会えるなら今日が最後のチャンスかも、と思った。

あまり行儀が悪いのは好きではないが、コートのポケットに手を突っ込み寒さをしのぐ。

(手袋、してくれば良かったかな)

そんな思いで焦りを紛らわせながら僕は廃ビルへと向かった。



 ◇◇◇



「あった」

薄汚れた白い壁に描かれたモノトーンの子供は、相変わらずそこで風船を掴んで佇んでいた。ニュースになったこともあってか警察も手を付けなかったのだろう。しかしあくまで落書きという扱いのせいで保護シートが張られていたり、警備員が駐在している気配もない。「三日月」の作品は、専門家からは「アート」と認識されているが、法律によっては「犯罪」と見なされる。消しもしないが保護もしない。すなわち相互の対立に巻き込まれたくないという警察の無言の意思表示だろう。

僕自身も彼の行為を否定するつもりはないが、なぜこうして公共の場所ばかりに絵を描くのかはいまだに理解しかねている。自分の作品を、自信をもって世に出したいならこんなシミのついた壁より真っ白なキャンバスに描いてコンクールに出店すれば良い。その方が、この白黒でありながら巧みに表現された世界をより多くの人に知ってもらえるだろうに。

「―全く、君を生んだ親には困ったものだねぇ…」

子供の後ろ姿に向かって呟く。結局のところ、僕はこの絵のことも気になって仕方がなかった。

同じ時に出会ったこの絵とあの香り。偶然かもしれないが一種の強い好奇心をそそられる。

しかし暫くその場に留まっていても、特に誰も来る気配はなかった。訪れて四十分ほど経過し、沈黙が長くなるほど、徐々に冷静になっていく。

「……帰るか」

単に僕が試したかっただけだ。流石に手を何度さすっても冷えが収まらなくなってきた。この貴重なアートをもう一度見られただけでも幸運だと思えば良い。香りのことは、時折思い出して記憶の中に確実に留めておこう。最後にもう一度壁画を一瞥してから自宅の方向に一歩歩きだす。

その時、カツ、と乾いた音がして振り返る。

「え、あっ⁉」

誰かいる、そう察知した時には遅かった。背後の足音が近づき、僕の体は誰かの手によって軽く浮く。振り返る間もなく、どうやら自分より大きいものに羽交い絞めにされた。

「ぐっ……ちょ、おい!! っふ!?」

「はぁ、はぁ……まさか、また来てくれるとはなぁ」

荒い息が耳にかかり、低く掠れた声で囁かれる。高齢ではないが、そこそこ年がいっているのだろうか。

(もしかしたら、アルファか?)

慌てて身を捩り、逃れられる方法を画策するも脇の下を締めてくる腕の力が逆に強まった。

「っ、⁉」

「はぁ、大人しくしろよ……でなきゃどうなるか、わかってんだろうなぁ?」

「ぐうっ、は、なせっ、‼」

鳩尾を急に圧迫されて、僕は一つ重大な失念をしていたことに気づいた。

アルファは発情すると普段の比にならない腕力や身体能力を発揮することがあるという。目的のオメガを確実に仕留めるための生理現象だ。もし今この男が、僕自身も気づいていないうちに発していた微量のフェロモンに中てられていたとしたら……途端に背中に冷や汗が伝う。

同性でも、鍛えていない奴であれば余裕と構えていた。だがバース性の差が出てしまえば完全に分が悪い。せめてもう少し早くに気配を察知していれば難を逃れられたかもしれない。自身の嗅覚の鈍さを盛大に呪った。

「ひひっ、お前先月も来ていただろう? あの時すげぇいいニオイさせてたよな」

「…る、さい…!」

「おまけにこんな綺麗な顔してんのか。やっぱオトコとはいえオメガは違うな」

まだ自由になっている手足で精一杯藻掻くも、今のこの男には通用しなさそうだ。更に身じろぎによってマフラーがほどけ、夜風によって地面に落ちる。それが余計に僕の焦りを煽った。季節柄服はタートルネックだし、その下にはもちろん防止用のチョーカーもしている。だがそれも状況によっては破損する可能性はあるし、項を守れたとしてもレイプはされてしまうかもしれない。案の定、男の節の多い指がニットの襟元を力任せに引っ張ってきた。

「へー、貞操帯にしちゃあ、ずいぶんオシャレにしてんのな」

チョーカー型の首輪を覆っている布をしつこく弄りながらじゃっせられる笑いが耳にこびりつく。

「く、っ……さわるな…っ」

「ふん、オメガのくせにイキってんんのか。どうせ最後は俺らアルファのモノになっちまうんだから、こんなん必要ねぇのによ」

「あっ⁉」

布越しに項をつぅ、と人差し指でなぞられて思わずビクリと震えてしまう。性経験のないオメガの項は性感帯だ。もしかしせずともこの男は僕を番にするまではできなくても、ソコをまさぐることによって犯し、性欲を満たすつもりか。不本意な快感に反応しながらどうにか奴の急所を攻撃できればと思案した。


「ぐっ、暴れるな、こんの、っ!」

男の怒号を浴びながら、ふとあることを思い出す。そして無暗に振り回していた腕を伸ばし両手を男の指に伸ばした。

急に変わった僕の行動に何ごとかと怯んだ隙を突き、触れた男の両手指を思い切り手前に引っ張る。

「ぐああああっ⁉」

あまりにも痛かったのか、男は太い悲鳴を上げて先ほどの強引さは嘘のようにあっさりと僕の体を離した。突然解放された反動で思わす膝から崩れ落ちるも、すぐに立ち上がりその場を離れようと駆けだす。

「ま、まてェ!」

が逃げ出す様子を見て、男もすぐさま追いかけてくる。とりあえず猶予は出来たものの、このまま確実に逃げ切れるだろうか。アルファの特性で今は腕力だけでなく脚力も人並み外れているかもしれない。どこかの脇道に逸れることも考えたがフェロモンの匂いですぐに知れてしまう可能性もある。

(ああもうっ! 計算ごとが苦手な僕には、これくらいしか……)

悔しさに唇を噛み締めた時、男とは違う声が聞こえた。


「―ほぅ、こんな夜道で乱暴はいかんのう」


張りがありながらも老成した空気をはらむ声。その特徴的な響きに、思わず意識がその源を探る。

「えっ……?」

僕を驚かせたのはそれだけではない。あの、望んでいた匂いがふわりと僕の全身を覆った。

「なっ、なんだお前は……⁉」

「はは。ただの通りすがりのじじいさ」

威嚇する男にも特に怯む様子はなく、香りの主はゆっくりとこちらに近づいてくる。

月明かりに導かれてようやく捉えた姿は、その口調とは裏腹のひんやりと美しい形をした青年。

(おじいさん……では、ない⁉)

まるで幼いころ、母の蔵書で読んだ古典をモチーフにした絵本に出てきた、お姫様を浚った美しい貴族みたいだ。その佇まいにただ茫然と見とれて、男と僕の距離は縮まりまたも捕まってしまう。しかし男は鈍い叫びを残し、あっさりとその場に崩れ落ちた。

「ぐあっ、」

「こら、だから止せと言ったではないか」

僕に何かあったのかと思ったが、震えながら睨む先を見るとどうやらこの青年のせいらしい。とうとう歯軋りをして怯んでしまった男を一瞥すると、青年は一瞬なぜか憂鬱そうに整った眉を寄せて小さくため息を吐く。

「こういう時は悪くないな」

「えっ?」

「あぁ気にするな。それで、どうする?」

何をと思ったが、青年が小さくなった黒い影を指さしているのでやっと我に返る。もちろん警察に突き出すか、この場で首を刎ねてやるかの二択しかないのだが、生憎今ここには刀などないので前者が最善だろう。



◇◇◇



怯える男を二人がかりで叱咤しながら二十分かけて最寄りの警察まで連行し、簡単な事情徴収を受けた。僕が事態の一部始終を刑事に説明している間、後ろの簡易ソファで男は手の指が痛むと半泣きでもう一人の刑事に訴えていたようだ。思えばあの時、僕がかました一撃で多少の怪我をしているのかもしれないが、自業自得なので知ったことではない。それよりも背後からずっと感じる青年の視線の方がどうにも僕には気がかりだった。

初対面なのに温かく見守られているような心地はいったい何なのだろう。

「ふぅ、これで一件落着か」

警察署を出る頃には日付が変わりかけていた。

「本当にありがとうございました。貴方があの時いてくれなかったら、僕は今頃どうなっていたか」

「いやいや、こんなじじいでも役に立ったなら光栄だ」

素直に感謝の意を伝えると、彼は笑ってそう言った。まだ明らかに若々しい風貌なのに、自分のことを「じじい」とは。少し変わった人だ。ともあれ無事とはいえこんな大ごとになってしまったので、僕はもうすぐに自宅に戻るより他ないだろう。

「あの、僕はこちらの方向なのですが」

「おおそうか、俺も同じだ。どれ、途中まで一緒に参るか」

「あなたがよろしければ」

穏やかそうな彼の提案に、僕も素直に頷く。助けてくれたのが彼で良かったと心から感じていた。

「今日は月が綺麗だな」

快晴の夜空の下を二人並んでのんびりと歩く。

「…今日はちょうど、綺麗な三日月ですからね」

「そうだな」

まだ名前も知らない者同士の、行きずりの他愛ない会話。それでも人見知りが激しい僕としては、ここまですんなりと言葉が出てくるのは珍しい。彼の口調がのんびりとしているせいか急かされないし、暫く黙っていても咎められる空気にもならない。それにとても安心した。時折横を見やると、彼の横顔が白い息でけぶっている。造作があまりにも端正すぎるせいか、そのシルエットすら絵画のモチーフになりそうで思わず見入ってしまう。おまけに相変わらず良い香りは漂い続けている。

さっきまでは男に襲われかけたことに腹が立って忘れていたが、この彼は一体何者なのか。

叶うものなら、彼のことをもう少し知りたい。横顔だけでなく香りと共にその美しい顔を真正面から確かめたい。月も確かに美しいけれど、あともう一瞬こちらをを見てくれないだろうか。

「のう、」

「あ、は、はい」

声をかけられて思わず声が跳ねる。彼の歩みが止まり、それでちょうど分かれ道に差し掛かっていた。

「俺はこっちだが…お前は」

「あ、僕は逆方向ですね」

「ふむそうか。ではここでお別れだな」

彼は夜風のように涼やかに微笑む。あぁそうだ、せめて名前だけでも知っておこうか。

「あの、すみません。最後にお名前を」

「うん? 名前……」

「えぇ、僕のことでこんなにお時間をかけてしまいましたし、後日お礼をと」

「はは、構わん構わん。たまたま散歩していただけのしがないじじいだ。そういうことにしておいてくれ」

「ふふ、さっきから思っていたのですが、貴方はご自分のことをそんな風におっしゃるのですね」

「なに、長いこと生きてきたからな」

「そうなんですか? 僕からはとてもお若く見えたので……」

本当に今日の僕は他人相手にペラペラと喋る。ちょっとした捕り物をしたせいで、気分が高揚しているのかもしれない。帰ったらすぐに眠れるだろうか。

「では俺はこれで」

「あの、本当に、お礼は……」

「だから良いと言っておるだろう」

「いえ、そうはいきません。ご近所なのでしょうか?」

「ははは、若者にしては実に礼儀正しいな。感心感心。だが…」

彼はもう少し何かを言いたげなところで、急にふらりと足をよろめかせた。

「え、あの、大丈夫ですか?!」

転ばないように慌てて肩を支えたが、どんどん体重が僕に圧し掛かってくる。いきなりどうしたのだろうか。

「あ、あぁすまんの……なに、少しくたびれただけだ」

「本当ですか? どこかお体の調子でも、」

「やや、ここ最近……一週間くらいか、何も食べてないだけだ。たいしたことでは」

「一週間……」

何も食べていない。それが大したことではないと?

ヒートの時期を除いで毎日三食きちんと食べなければ気が済まない僕はそれが理解できず、一瞬思考停止に陥る。しかしそうしているうちにも彼は離れていくどころかぐいぐい寄りかかってきてとうとう全力で抱き抱えないと僕まで潰されそうになる。

「すまんのう、どうにも力が」

「ちょ、ちょっとしっかりして下さい!」

恐らく眠いのだろうが、顔を見やればうつらうつらと瞼が重そうだ。顔が近い、ものすごく近い。なんだこの毛穴一つない肌は。どんなに美しい茶器でも、こんなに肌理が細かいものは見たことがないぞ⁉ そんな間抜けなことを思ってしまうが、そうでもしないと密着したせいで良い匂いが一層濃くなっていてすぐにでも脚の力が緩みそうな気がする。理性を総動員しつつ、僕は彼にそっと尋ねてみる。

「あの、…ちょっと、お聞きしたいのですが」

「ん、」

「ご住所は……」

「あぁ、この先、花丸西町の三……」

「お名前は……」

「三条…さん、じょ……むにゃむにゃ」

彼が指で示した方向は花丸西の三丁目。そして三条某という名。

彼はとうとう寝息を立て始めたが、これだけの情報があれば何とかなりそうだ。

「……歩いて五分というところか」

あまり遠くなさそうでほっとしながら、僕は意を決して彼を転がさないよう右肩に抱え直した。



(後略)



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